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2012年10月30日火曜日

メロディをイメージする



彼末研究室博士課程2年の加藤孝基です。
私は幼少よりバイオリンを続けています。また陸上競技もやっていたために、研究室ではどういうわけか“なんでもできる加藤君”という愛称で呼ばれています。
これは決して褒められているわけではありません。研究室でコーヒーメーカーに粉と水をセットしてスイッチを入れただけでコーヒーも作れちゃう男。最近では、飲みの席に遅刻してしまっただけで、“遅刻もできちゃう男”と呼ばれる具合です。ようはいじられているだけですね。笑

さて、先生の話にありました、「音楽を聴く」ことと「スポーツを観る」こと。
おっしゃる通り、これは一見非なるもので共通していることがあるかもしれません。
音楽をイメージして聴くときにミラーニューロンが働くかどうかは定かではありませんが、一度聴いたメロディをイメージできる音楽家ほど、その時に視覚野が働くことなどがいわれています。メロディを画像化して保存して、音楽を聴きながらその画像を引っ張ってきているわけですね。

音楽では、一度聴いたことのある音楽と初めて聴く音楽とではその印象が全く異なります。また、初めて聴く音楽でも耳に馴染みやすい音楽とそうでない音楽があるのも事実です。ショスタコービチのような現代音楽ですと、次の展開を予測するのが非常に難しいです。期待通りの音が来なくてイメージしにくいわけですね。
運動でも、ランニングのようないわゆるパターン化された動作はイメージやすく(音楽でいうモーツアルト)、体操競技のような難易度の高いワザほどイメージしにくいといったことがありますね。

話は変わりますが、西欧のクラシック音楽の作曲においてよく用いられている手法の一つに「偽終止」というものがあります。
ヤマハのCMで女の子が歌っているアレ。
「ドレミファソーラファミ・レ・・」
ときたら次にどんな音がきたら気持ちいいですか?耳に馴染んでいる、といった理由ももちろんあると思いますが、おそらく多くの人がドと答えるでしょう。
メロディには必ず相応しい終わり方があるのです。その音でメロディが終わることを音楽用語で、“終止”あるいは“解決”といったりします。
偽終止というのは、“わざと”終止せずに、期待を裏切る音符を持ってくることをいいます。予想外の展開に聴く側は知らぬ間にドキドキワクワクさせられてしまうわけです。そのような手法を巧みに作曲家は操っているのです。

運動の指導現場では、視覚情報とミラーニューロンによる主観的な情報を統合させ、いかにそのズレを検出できるかが良い指導者の条件かもしれません。特に、先述した体操競技のように難しい動作ほど指導者の腕の見せ所であるわけです。

一方で、音楽における作曲では、聴く側がイメージするであろう音と、実際の音との間に“わざと”ズレを作り、いかにそのズレを巧みに操り人々の興味を惹く音楽を作ることができるかが、良い作曲家の条件なのかもしれません。

実は、ビートルズのYesterday の最後は終止していないのです。曲の一番最後に終止させないことは、非常に稀です。
もしかしたら人々は、次が知りたくなる不安な気持ちを潜在的に持ってしまうために、この曲に魅かれていったのかもしれませんね。
音楽も運動も人生も、色んな意味で似ているところがたくさんあるようです。笑


さて末筆になりますが、気が付けば先生の問いからだいぶ話がずれてしまいました。
どうやら私の話も終止していないみたいです。。


                       加藤孝基

2012年10月8日月曜日

「音楽を聴く」と「スポーツを観る」

 音楽を「聴く」とはどのようなことだろうか。

単に音を「聞く」だけではない。
知っている曲ならそのメロディーを頭のなかでなぞっているようである。
これを確かめるため、試しにショスタコービッチの交響曲7番をかけてみる。
これは最近ラジオで聞いて気に入って買ったものである。
実は第1楽章だけ何回も聴いてなじんでいる。
一方、それ以外の楽章はほとんど聞かず、メロディーもほとんど知らない。
まず、第1楽章をかけて曲の途中で止めてみる。
すると頭の中で確かに曲の続きが聞こえる。
つまり、意識はしていないが、「イメージ」で曲をなぞっているようだ。

一方、ほとんどきいたことのない第4楽章では、曲を止めた途端に無音の世界になってしまう。
つまり、知っている曲を「聴く」とは単に受身なものではなく、いわばその曲をイメージで演奏するというactiveなプロセスが含まれるのである。


 同じことがスポーツをするのを見る(観る?)ときにも言えないだろうか。

私は昔走り幅跳びをしていたが、今でも選手が競技するのを見るとき、頭のなかでリズムをきざんでいるのが分かる。
そこで、うまくジャンプ出来ない試技を見たときには何となく違和感が残る。指導者の人たちが選手を指導するときも同じかもしれない。
頭の中で理想の動きと選手の動きを同期させているのではないか?
そして、両者がずれることが指導の手がかりになるのではなかろうか。
これは神経科学的に言えば、「ミラーニューロン」のはたらきということになる。

 加藤君どうでしょうか。



 彼末一之