彼末研究室博士課程2年の加藤孝基です。
私は幼少よりバイオリンを続けています。また陸上競技もやっていたために、研究室ではどういうわけか“なんでもできる加藤君”という愛称で呼ばれています。
これは決して褒められているわけではありません。研究室でコーヒーメーカーに粉と水をセットしてスイッチを入れただけでコーヒーも作れちゃう男。最近では、飲みの席に遅刻してしまっただけで、“遅刻もできちゃう男”と呼ばれる具合です。ようはいじられているだけですね。笑
さて、先生の話にありました、「音楽を聴く」ことと「スポーツを観る」こと。
おっしゃる通り、これは一見非なるもので共通していることがあるかもしれません。
音楽をイメージして聴くときにミラーニューロンが働くかどうかは定かではありませんが、一度聴いたメロディをイメージできる音楽家ほど、その時に視覚野が働くことなどがいわれています。メロディを画像化して保存して、音楽を聴きながらその画像を引っ張ってきているわけですね。
音楽では、一度聴いたことのある音楽と初めて聴く音楽とではその印象が全く異なります。また、初めて聴く音楽でも耳に馴染みやすい音楽とそうでない音楽があるのも事実です。ショスタコービチのような現代音楽ですと、次の展開を予測するのが非常に難しいです。期待通りの音が来なくてイメージしにくいわけですね。
運動でも、ランニングのようないわゆるパターン化された動作はイメージやすく(音楽でいうモーツアルト)、体操競技のような難易度の高いワザほどイメージしにくいといったことがありますね。
話は変わりますが、西欧のクラシック音楽の作曲においてよく用いられている手法の一つに「偽終止」というものがあります。
ヤマハのCMで女の子が歌っているアレ。
「ドレミファソーラファミ・レ・・」
ときたら次にどんな音がきたら気持ちいいですか?耳に馴染んでいる、といった理由ももちろんあると思いますが、おそらく多くの人がドと答えるでしょう。
メロディには必ず相応しい終わり方があるのです。その音でメロディが終わることを音楽用語で、“終止”あるいは“解決”といったりします。
偽終止というのは、“わざと”終止せずに、期待を裏切る音符を持ってくることをいいます。予想外の展開に聴く側は知らぬ間にドキドキワクワクさせられてしまうわけです。そのような手法を巧みに作曲家は操っているのです。
運動の指導現場では、視覚情報とミラーニューロンによる主観的な情報を統合させ、いかにそのズレを検出できるかが良い指導者の条件かもしれません。特に、先述した体操競技のように難しい動作ほど指導者の腕の見せ所であるわけです。
一方で、音楽における作曲では、聴く側がイメージするであろう音と、実際の音との間に“わざと”ズレを作り、いかにそのズレを巧みに操り人々の興味を惹く音楽を作ることができるかが、良い作曲家の条件なのかもしれません。
実は、ビートルズのYesterday の最後は終止していないのです。曲の一番最後に終止させないことは、非常に稀です。
もしかしたら人々は、次が知りたくなる不安な気持ちを潜在的に持ってしまうために、この曲に魅かれていったのかもしれませんね。
音楽も運動も人生も、色んな意味で似ているところがたくさんあるようです。笑
さて末筆になりますが、気が付けば先生の問いからだいぶ話がずれてしまいました。
どうやら私の話も終止していないみたいです。。
加藤孝基
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